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星界の道~航海中!~

星界の道~航海中!~

【堀上人に富士宗門史を聞く】1

 富士日興上人詳傅に引きつづいて本誌五十五号より掲載されておりました富士宗門史は、堀上人の御都合にて一時中断しておりました。そこで、要集編纂等で御多忙の堀上人に特にお願いし、畑毛にお伺いしまして、日時上人より日寛上人ころまでの宗門史を語っていただきました。

【戦国時代の富士教學】

 ○ 大石寺五世の日時上人のころは、ちようど保田の日郷の方と、大石寺の方とが、係争の真最中だと思いますが、そのころ、日時上人の書かれた本因妙抄のお寫しが大石寺にあるということはやはり、日興上人以来の正しい教学というものを相富大石寺の方で強く打ち立てておられたものと思われますが、いかがで
しようか。宗祖滅後百年ごろには妙蓮寺日眼師がおられたし、又もっと以前には三位日順師もおられたのですが……

 【堀上人】 それはですね、北山にそういう古い文献がないんですよ。そして大石寺に本因妙抄等がある。それによって、大聖人の教義を大事にしていたというしるしにすることができるのです。
 それに、三位日順のあゝいう一連の各書類がですね、北山に一冊もなくて、みんな大石寺にある。もっとも北山には、日順の直接の筆ものがあるけれども。それは重大なもんではないですよ。日順の筆に相逞ないですけれどもですね。それは、ほとんど御開山の教義を直接に書いたものではなくて、ほかからきたのを日順が寫しておいたというような、そういうものは北山にある。いつか寫眞で大白蓮華に説明したことがありましたですね。とにかく大事な日順の誓状始め、あゝいうものが北山にないです。
 そして戦國時代の寫本が大石寺にあります。しかし、その書いた人の行蹟がわ、かりません。ま『まあ、その寫された時代は戦国時代から織田・豊臣時代までですね。このような戦国時代としては古い方の書類が、全部大石寺にきているんです。もう少し研究すると、その寫本の主人公がわかりますがね。今では名前だけで行蹟が全然わからん残念です。

 ○ 特に教義とか歴史とか……

 【堀上人】 いえ、三位日順のすべてのものがほとんど、どこにもないのです。あるのは大石寺に一度きたのを、要法寺の人が寫して、そして要法寺へ持っていって、それを今度は北山に寫してあげたのが北山に残っている。ですから大石寺の三帳本ですね。大石寺のが一番古くて――古くてといってもですね、日順の本じやないんじや、日順の本を寫した人が、何人かあつて、それが日順の古い本を、みな大石寺にもつてきた。どういう動機でもってきたかも、寫本の主の経胆がわかりませんから不明だし年代もわからんです。たゞ紙や筆法でもって、この時代じやろうといって、わたしどもが鑑定するだけのものでね。

 ○ そうすると、三位日順の本因妙抄口決なども?

【堀上人】 えゝそうです。口決などもそうです。あゝいうものが、ほかにないから、本因妙抄ロ決などを要法寺あたりでは、偽書だなんていっている。それに、文體が他の物と違うですからね。普通の三位日順の立派なこしらえ上げた、修理された漢文體のものはたくさんある。けれども書きっぱなしのものが、保田の妙本寺から出たですね。それは妙本寺日安あたりが書いたものですから。日安というと、お山の日有上人時代ですね。とにかくそれは漢文體でなくて仮名混り漠文體のいたってまずい文體になつていますがね。それからみると、本因妙口決などは、漢文にはなっていますけれども、文體がほかの三位日順の修正された文章にくらべてみると、ほとんど似つかない拙文です。それで、これを偽書だというのです。けれど、その、ほかに日安の寫した古いものによってみるというと、同し種類の日順のものがあったのです。ですから拙文だからといって偽書ではありません。

 ○ それは宗學要集にも、のっておりますか。

【堀上人】 ええ、のっております。たヾ残念なのは、百六箇抄が本山に残ってない。
本因妙抄が残っているから、百六箇抄も、むろんあったに違いない。本山でもですねあの時代は直接の法門に関係あるものは大事にしたか知れませんけれども、そういう難しいものは、平常は使わない。大事にしすぎて使わないでいて、なくなったかしらんと思う。あまり大事にすると、しよっちゅう、みないんですからね、いっかしら、見ないうちに無くなってしまう。大事にして、しょっちゅう、寫し寫しているというと、どっかに帳寫本がありますけれども。寫しもしないで大事にどつかに、しまつておくというと無くなってしまう。


 【有師と板御本尊】

 ○ ちようど、大石寺の日時上人から、日有上人ころまでが、戦国時代の真最中なわけですね。このころには、特にこれといった事件はなかったでしようか、日有上人までは。

【堀上人】 それは日有上人の御苦努の歴史しかない。それから日有上人によって東北地方の古い末寺が保存されたという程度ですね。ですから小金井の蓮行寺でも、それがち磐城の妙法寺でも、みな日有上人の、例の紫宸殿の御本尊を寫された板御本尊がある。

 ○ 磐城といいますと、

【堀上人】 福島県の、黒砂のこっちの海岸通りの方ですね。そういうのが間逞えられて日有上人が板御本尊を偽造したなんていうことをいう。その日有上人の残された本尊がみな大きいのです。それから、今天王堂の本尊というのが御本山にありますがね あの御本尊様もかなり大きいですよ。そういう板本尊の古いのは、ほかの富士門流にはないです。ないですから、日有上人が紫宸殿の御本尊崇拝ですから、紫宸殿の御本尊をいくつも彫っておかれたのです。
もっとも御自分で彫ったのじやない。佛師が彫つたのです。なんていう名前の人かは書いていないですね。
 それが大石寺と北山とは、ほとんど例の二品読誦(注、方便品を読むか読まないかについて日代日仙の問答)以来からの、あまり親しい仲じゃないのですから。ですから、何か、北山では、大石寺のアラを探ろうという學匠が多かつたのです。そんな人が日有上人が板本尊を偽造したなんていうことをいい始めている。自分たちが作ったことはないから……。

 ○ 日有上人の以前に板御本尊を御作りになつたということはないでしようか。

【堀上人】 東北地方の古い御開山時代からの末寺などの板御本尊は、みな新しいですね。

 ○ 今大石寺に安置してある日興上人の御本尊で、持佛堂の御本尊がありますけれども、あの御本尊はもつと古い?

【堀上人】 あれは御開山時代ですから。

 ○ 彫刻が、

【堀上人】 ええ、ええ。持佛堂の御本尊というのが、いくつもあります。持佛堂の本尊として残つているのが、栃木県の信行寺に残つていますね。それから、東京の芝の上行寺に残ってています。

 ○ 芝の上行寺つて、大石寺じゃなくて…。

【堀上人】 ええ、西山系です。その上行寺は東京の芝ですがね、それから千葉県の中田の日蓮正宗真光寺に残っています。

 ○ それから、六壷の御本尊像はあれも持佛堂常住となっておりますが、

【堀上人】 ええ、ええ。

 ○ 前は蓮蔵坊に安置してあった御本尊様ですか。板御本尊様。

【堀上人】 六壺の御本尊はね、始めて私の師匠が六壷を復興された。そのときの御本尊は、そういう立派なものじやなかった。あとで私が古い御本尊と入れ替えたような記憶がある。それは古い板御本尊ですね。

 ○ そうすると、よく身延なんかで、御本尊様を彫刻なさったのは、日有上人が日蓮宗で始めてだみたいのようにいいますけれども、そんなことはない……

  【身延の板本尊】

【堀上人】 そりゃ、身延にあるんです。板御本尊が。

 ○ ああ、そうですか。

【堀上人】 身延にね、一とう古いのは民部日向のがある。

,0 ははあ。それが板御本尊ですか。

【堀上人】 そうです。形は小さいです。

 ○ ははあ。

【堀上人】 そりゃ、見せないんですよ、

 ○ あゝそうですか。

【堀上人】 中蔵にある。どんな者が行っても中蔵や東蔵には案内しない。私は、いろんな関係があったからね。東蔵に何度も……こっちからも要求して行くし、むこうからも、あんたに見せた方が良いからといって、私を再々、東蔵に案内したです。

 ○ はあ。

【堀上人】 うまいことに図書の係りと連絡があったんですから……。むこうの貫首なんかに相談すると、そんなことはダメですいいアンバイに、図書の係りが、私に縁の深い人が二代いたものですから。先には『島智良』というのね。あれは海軍の軍人上りですがね、でも壮年にして出家して、そして、あっちでも、ちょっと成つた、その何といって、良いですかな。欲を離れた昔の聖僧みたいな行体をする人でね。それでむしろ、身延の町などでもですね。とても島智良というのは信用が強くてね、佛様扱いにされていた。それが、身延の図書の係になった。
 その以前に、東京で池上の、日宗新報を永く出していた『加藤文雅』が池上でもって、東京に布教をしましてね、そして京橋方面で講中をもっていたですね、そして三つの講中があってね、その三つの講中が、みんな申し合わせたように、大石寺の信徒に成っちやった。けれども、そういうことは、ほとんど問題にしないでですね、わたしが小梅にいた時分に、加藤文雅と、ちょっと縁故ができましたから、それで交通して、私のところに加藤文雅の弟子たちが、しょっちゅう、材料とりにきてましてね、そんな縁故でですな、表面は私を敵にしなくちやならんのだが、一向、敵にしないでいた。この加藤文雅にょってですな、いろいろな向うの寺に賓物なんかの調査に行ったこともありますよ。
 そのうちに島智良がですね、身延に入って、行學院日朝の古い文献を裏打ちして修理することになった。そんなことでですねちょうど、加藤文雅の講頭の中で、銀座に松岡という菓子店がありましてね。その主人がやはり、こちらに改宗した一員でした それがまた、賓に成った男で、ほかのところに行かないんです。わしのところにくるけれども、ほかの寺に行かない。面白い男でね、信仰は強いんですよ。その松岡が紹介して、こういう成つた坊さんがいるからつきあってくれといって、わしのところへ島智良をもってきたんです。それから縁が深くなつてね、しょっちゅう、きますし……それがまた、ごく真正直な男ですからねいいたいことは、、どんどんいって、しょっちゅう、わしと喧嘩していた。稲田みたいに、シンが強くて外のやさしいような人間じゃないですから。内外ともに強硬でしたからね。しょっちゅう喧嘩していた。いたけれど、わしの心持ちもよく分るとみえてわしの望んでいるものは知つていますからね、そして。゛こうこい゛といいますから、身延へ行ったです。表面じや、行けないですけれどもね。行って、そして、わしが注文しないでも、中蔵や東蔵から、いろいろなものを持ち出してくる。゛これは見たか゛なんてね。とつても便宜をはかつてくれたですね。今では、そんなことは、できやしないです。

 ○ その中で、これはというのは、民部日向の御本尊くらいですか。

【堀上人】 ええ、民部日向の御本尊。それは私が東蔵に入らないうちに小さいですから、中蔵から持ってきたですね。『日蓮幽霊』と書いてありますがね。

 ○ 日向が書いたもの……

【堀上人】 ええ、日向の書いたもの。

 ○ ははあ、

【堀上人】 これくらいの。(手でさし示さるニ尺弱)。それから、何年かして、後で身延に行ったときには、島智良の師匠分になっている、内房の本成寺の冷泉養惇(れいぜいようじゅん)というね、こりゃ、頑固な、とっても偉い、商■気を離れた学者でした。それが永いこと身延の総監やつていましたから。それが、わしと島智良との関係を知っていますからね。その人が、弟子がわしの世話になつたからといってね、あんたのために何かしなくちゃならんというて、再々呼んでくれたです。東蔵に案内されたのはそのときです そのときの蔵番(図書館主任)が今身延で山務総監か何かゃっています、江利山というが、まあ、何かのですかね、それが主任でしたから。それが案内したです。そうすると、その、民部日向の板本尊ばかりじゃないんじゃ。例の身延の『重遠乾』の三人ね、日重、日遠、日乾、あゝいう人にまで板本尊があるんですよ。

 ○ はあ。

【堀上人】 それは誰も見た者はないです。見せないんじや。立派ですよ。ほとんど六尺くらいですかね。それぞれに寸法は違いますけれども……。そんな大きな板本尊だったですよ。

 ○ そのころは、身延でも、あんな狐のようなものは祀らないで、そういう板本尊を祀って拝んだのでしょうか。

【堀上人】 どうも、そうらしいですね。狐などは後らしいですね。(笑)七面は古いね。七面は古いですけれども、例の日朗上人なぞをかつぐのは後の偽造ですね。日朗以後らしいですね。日朗があまり身延に登山しないでね、そして身延の山にそういうものをおくということはない。日朗の名を騙(かた)って後の人が七面をこしらえた。ですから七面は行學日朝時代でしょ。

 ○ 行學日朝は日有上人時代ですか……

【堀上人】 ええ、日有上人とほとんど同じ生年は少し日有上人が後れるでしょう。

注・身延の板本尊(堀上人の記録より)板本尊は延山に多数ある、中にも日向の添書に「正安二年庚子十二月 日。右日蓮幽霊成佛得道乃至法界衆生平等利益ノ為二之ヲ造立ス」とある丈貳尺七寸幅一尺八寸の大聖人の御筆を寫した板本尊が■蔵に嚴護せられてあるが、殆んど秘佛で一般には、公開せられてないのは何の為かを知りぬ。
 (大白蓮華第十八号九頁富士日興上人詳傅より)
  一般の板曼荼羅の思想は比叡山にも又御門下にも幾分か有ったものと見え、延山の中蔵に民部向師の書寫で「日蓮幽霊」云々の脇書有る板本尊があり、又東蔵には中世の数枚の板本尊がある。
(大白蓮華策十四号十一頁 富士日興上人諸伝より )


 【中興の祖、日有上人】

○ 日有上人は、ずい分、地方をお廻りになったわけですね。

【堀上人】 それはですね、家中抄などにはあまり詳しく出ていないのですよ。もっと家中抄に日有上人の傳記を長く出す必要あるですけれども、ほかの簿記が材料がないですから、日有上人のばかり出すのはおかしいという考えであったか又は精師が日有上人の材料をそれだけしか持っていなかったか、というわけで、日有上人の傳記は家中抄にはそう澤山出ていないのですよ。
日有上人には後の聞き書きが澤山ありまして、聞き書きなるものも、あまり本山で使わない聞き書きが多うございましてね。わしが、そちこちから集めたのです。その中でみると、歴史的にいろいろ變つたことがあります。これは聞き書きとして要集に編さんされてありますから、ごらんになっているでしょう。聞き書きが四通ばかりありますね。それから又、これにのっていない聞き書きがあるんです。それは金澤から出ましたね。それが揃っていない。まあ、日因上人の佳跡という聞き書きの注釋文がある。それが上巻だけでね、中下二巻がないです。それで、中下二巻がどっかになくてはならんが、とこにも見っからない。たヾ金澤に残っているのは、中下二巻のうちじやろうと思っているのが、ようやく、二十箇條ありますかね。その方は本が三四部ありましたから、全部わしのところに取っておきましたが。それをみると、いろいろ變つたことがあります。ですから、日有上人の伝記も、精師の伝記よりも、もっと廣くしなくちやならん。そうなんですから、私が宗門史を書いて、日有上人の綱目に入るというとですね、どうも、精師の家中抄で飽き足らなくて、いろいろの材料をここにもってこなくちや具合が悪いのです。そして叉、日有上人を中興開山として尊敬するということからいっても、日精上人の書きツぶりじゃ、どうも具合が悪い。

 ○ 家中抄に、日影上人が血脈を伝える人がないから、油野浄蓮に血脈を伝えたとある。それじゃ、日有上人は血脈をうけていないしゃないかということになると、他宗派でいいますが、これは何の根拠もないのでしようか。

【堀上人】 精師がどこからもってきたのかわからない。わからないけれども、油野浄蓮という人は日有上人に関係の深い人であった。ですけれどもね、その年代が、日有上人の晩年に、油野浄蓮がいたんですからね。ですから、その浄蓮に影師が血脈を伝えるとなると年代があわない。影師の遷化の時分は、日有上人は少年ですから……。そして日有上人が七十餘歳で亡くなられている。油野浄蓮が、もし、日有上人が少年で血脈をうけることができないから、かりに、それをうけたとするということですね やはり相當の年でなくちやいけない。そうすると、日有上人の晩年にですね、油野浄蓮がいたとすると、どうしても油野浄蓮は百歳ぐらいでなくちゃならない。ですからどうも年代が合わない。
 しかし浄蓮と日有上人の関係が深いからそれをもってきたんしゃないかと思う。関係が深いということは文献があるんです。
黒瀬の妙本寺の本尊に、油野浄蓮に興えることになっているんです。紫宸殿の御本尊を書いてね、油野浄蓮に興えるということになっているんです。それから又、例の房州の記録によってみるというと、日有上人の晩年にですね、文明十四年ですか、妙本寺の末寺の僧侶が大勢と、北山の貫首と連合してですね、大石寺に例の談判にやつてきた。そのときですね、油野浄蓮がいたんです。ですから、どっちからみてもですね油野浄蓮という人は、日有上人の晩年にいたに違いないです。だから年代が合わないええ。ですから、これは、ただですね、有帥と浄蓮との関係が深いから、それを、精師が深く検討しないで浄蓮に影帥が相傅したというようにしたんじやないかと思う。
 精帥の記録にですね、余り根拠を書いてないというのが多いのですよ、家中抄始めね。どこから、もってきたのがわからんのが多い。根拠もないままに、相承する人がないから浄蓮に相承したなんていうことはですね、ちよっと具合が悪い。その例に三位日順を引張り出してある。三位日順は相承をうけた人じゃないんじや。どうも、そこのところは、精師の書き方が、ちょつと具合が悪いんです。それで、根拠のない事が多いのですから、わしは日蓮宗と関係のある時分に、日蓮宗々學全書ね、あの編さんのときにですね、むこうの日蓮宗の注文は、その精師の家中抄を入れてくれという注文だった。で、わしは出したくない。そんな記事が多いからな。それから又、あの時分に、馬鹿に本山のいろいろなことに肝入りしていました大阪の荒木清勇というのが、もう、それ以前に、心配してね。時の日就上人に手紙出して、どうもその日蓮宗全書には富士関係の本が出るから、もし、あれの第二巻に日精上人の家中抄でも出されるというと、例の油野浄蓮の相承なんていう、あゝいうイカサマが出ると困るから堀に、あゝいう家中抄などは提出しないように、あんたから申しつけてくれろといつて、手紙がきていた。しかし手紙までもない、わしが、あゝいうのは、精師には、どうも根拠の不明なものが多いから、あゝいうものを出すというと、かえって困るから出さないっもりだった。
 それから、わしは後に何で精師がそんなことを書いたのかと思って、いろいろなものを、しょっちゅう、しらべてみたけれども、何にもその根拠がないんですね。たヾ浄蓮と有師との関係が深いということをとってですね、そして浄蓮にコジツケたものと思いますね。けれどもですね、何かその影師の亡くなるときに、有師が壮年でなかったんですからね。相承を取次いだ人があったことは考えられる。それは、この浄蓮でなくって、誰か、、記録に残っていない人に、そういうことがあったと思いますね。
そこだけは推測でぎますが、全然わからない。


 【癩病などはデタラメ】

 ○ 最後の甲州杉山でお亡くなりになったということですね。

【堀上人】 その記録がですね、ほとんど、確かな記録はないですね。それを書いてあるのの古いのはですね、そうですね、御本尊の端にでもですね、杉山から送ったということの、記録があるといいですけれどもね、相當に有師の本尊はありますけれどもですね、そういう記録はないです。それから、お手紙は有師のお手紙はほとんどありませんでね、一体、有師という方は永いこと御在世であったですけれども、どうも、その御筆物が残っていない。お手紙は根方の本廣寺に一通あるきりでね、それは京都の御天奏にお出でになったときの手紙ですね。それも詳しいことはない。ちょっとしたことの、その、通知があっただけで。ほかに有師のお筆らしいのは手紙も残っていなければですね。有師のなにがしの寫本とか記録とかいうものも残っていないですね その割にですね、聞き書きはこの要集に発表しておいたように、澤山あるですからな有師の下にはですね、全國から特殊な人がしょっちゅう、きてですね、法門を聞いたに違いない。聞き書きが残っているくらいですから。今あれだけのものが残っているのですから、もっと澤山あっちのに違いないです。

 ○ どういう病気で下部へ行かれたというような……

【堀上人】 ええ、病気はわからない……

 ○ わからないわけですね。

【堀上人】 わからんけれどもですね、癩病なんて、そういう病気じゃない。そんならあんた、往復できやしない、みっともなくて。しよつちゆう、往復してござつたです……。
 で、病気については、むこうにも詳しい記録はないですけれども、晩年にはですね伝説によれば、つまり、杉山にこもって、そうして、「俺はここで亡くなるから、鐘の音が聞えなくなったならば、亡くなったと思え」なんていって、入定されたというような伝説があるけれどもね、これは、どうも、あまり信用はできないですね。もう亡くなったのは杉山で亡くなったのには違いないと思いますが。
 それを明らかに書いて残したのは、何ですね。要法寺の僧侶で、中之郷の妙縁寺にいて、檀林の関係ですね、もと中之輝の妙縁寺というのは要法寺で作った寺ですからで、わしの師匠の代になって、むこうで裁判したんですから。裁判に応じてこつちが勝って、そして大石寺の末寺になった。それは安政年間です。ですから、その妙縁寺は古くは、ほとんど要法寺から住職がきていたんです。その中にですね、壽圓日舒という人がおって、そしてこの、妙縁寺から檀林に通っていた。そうすると、壽圓日舒という人はですね、妙縁寺にいるくらいですから大石寺にも時々きていた。その人の日有上人の縁起を書いたものが、一番古いんですね。それは、杉山詣でという記録です。それは、ほとんど発表になっておりませんですけれども、今度の講集には、それも入れようと思う。

 ○ はあ、そうですか。

【堀上人】 それにはですね、その時分に、いろんな伝説があってですね、例の日有上人の体験談なんかもあったらしいです。それは、ことごとく書いてあります。書いてありまして、ほかの伝記にはないようなことも、いくらでもあります。ありますが、その人の意見ではですね、「正法に不思議なしなんていうようなことをいっているけれども、不思議というものは、ないようで実際あるべきものだ」と、日有上人の伝の記録の序文に、そういうことを書いております。そして、日有上人のいろいろの不思議のことも、そこにのっておりますね。

 ○ ああ。そうしますと、全然デタラメですね、癩病で死んだとかいうのは……

【堀上人】 ええ、全然デタラメです。

 ○ 日有上人と日隆との関係は……。

【堀上人】 ああ、あの関係もですね、不明ですよ。八品派でも、そういっていないから。四帖抄を作って、日有上人に日隆が献じたとか、それで日有上人は四帖抄を見なかったとか、それについて回答しなかったと、そういうふうに家中抄には書いてあるんです。けれどもですね、日有上人が四帖抄をうけて、打っちやっておくということはないです。

 ○ 最近になっていい出したんでしょうこれは。

【堀上人】 ええ。それで、有師と八品日隆との関係はないとみなくちやならない。

 ○ はあ。

【堀上人】 それで、ありとすればですね。
八品日隆と岡の宮の日朝からやはり有師の方へ、なにがしかのことが同ってこなくちやならないとは常識的に考えられるけれどもですね、その時分には、ほとんど岡の宮と大右寺との関係はなくなっているんです。ですから、何にも交通はないです。私は、もう、そういうふうに決めている。材料が新しく出れば問題外ですけれどもね。


【代官が大石寺を売つた】

 ○ このころの事件で代官がでてきますけれども……

【堀上人】 日有上人の晩年の本山の寺務のことを書いたものがですね、房州家の記録本の端にあるんじや。それにはですね、しよつ中、日有上人は全國を行脚してござったんだから、寺には相當の代官がおいてあった。その名前がですね、五六人のっている。五六人のっているんですが、一人も過去帳なんかにのっている人はないです。ないがですね、こういうことを書いておるんですね。

 あの時分に叡山が衰微しましてね、叡山の戒壇も衰微して、戒をうける人もないし、學問もですね、叡山に行ってわざわざ学問する人もなし、むしろ地方の田舎天台といって、地方に相当の学者がおって、學問をする、それの一つが柏原の檀林ですね美濃の柏原です。柏原という騨があるでしよう。こっちから行くとね、右手の方の一寸した山の裾に、気をつけてみると、・建物が見えますがね。そこに相当の寺があってね、その中に、田舎天台で一つの檀林があった。田舎天台の檀林ですけれども學匠が大勢集っておった。そこに慶舜という人がおって、相当の學者ですから、柏原案立なんていう本が今残っておりますがね。いろいろな本を書いた人で、その本も発行されて残っておりますが。その柏原案立の慶舜という人と日有上人が懇意で、ときどき行かれたらしいです。
 慶舜に會うたびに、日有上人は、大石寺の跡のことを次のように話されたという。
つまり三人の代官をおいた、しかるに、三人の代官がグルになって、大石寺を売っちまったということが書いてある。それで日有上人が帰って、三人を追拂つて、そして、ほかの代官をおいたなんていうことが書いてある。その三人、四人という人がですね、相当の身分の人ですって、みな阿闍梨号をもっていますからね。あの時分の阿闍梨号をもっているのは、相当の者でなくちや阿闍梨号はつけないです。だが、それが不幸にして、一人も過去帳なんかに名がのこっていない。ですから、どうも、その日有上人時代の記録が完全でないから、わからないけれどもですね、そういうことをわざわざ偽造する人はありませんからね。名前を偽造することもないんじゃ。

 ○ 大石寺を売ったということ……

【堀上人】 ええ売ったということね。それは日有上人の條目をおいて書いてあるのもですね、大石寺を売ったという事件は書いてある。

 ○ ああ、そうですか。

【堀上人】 売ったから自分が買って、三十何貫文を出して、そして又もとに返してしまつた。何でも二十貫文かそこらで売ったと書いてある。それはですね、

 あの時分は何でもないです。中央政府があやふやですね。ですから、あの邊のすべての政治上の関係は鋒倉管領でしょう。それは鋒倉管領なるものはあってもですね、地方の豪族に左右され、今川の盛んな時分はですね、むしろ、この鎌倉の支配を待たないで、今川家でもって支配した。その今川家なるものもですね、どっちかというと今川家の主人公が支配しないでですね、下等の代官である興津なんていう家でもっ、て富士郡あたりのことをしていた。ですから七十年の房州とのいろいろな、あの文書の中にもですね、それが出ているでしょう。

 ○ ははあ。

【堀上人】 あの事件でも房州で今度は自分の手に入れるために、三十貫も拂つているんです。それは買うんじやなくつてね、いろいろ手数をしてですね。そしてこの、房州なら房州の中納言日傅なら日傅の名前にするために、その手数料を三十貫文拂つたと。そういう勝手なことができたんですから、ですから手数料さえ出せばですね、すぐに売り買いができたんです。そういう無造作なことができたらしい。

 ○ その日有上人のときは、買つたのは誰だかわからないでしょう。

【堀上人】 買つたのは誰の名儀にしたかわからない。

 ○ ああそうですか。

【堀上人】 自分の名儀にしたんでしょう。代官の奴が。それがですね、根■のある、ほかの者がやたのならば、仲々あけ渡ししないんです。あけ渡しは容易じゃない。叱りつけたくらいではあけ渡ししない。ですから、寺にいる人がですね、自分の勝手な名儀にしたんでしょう。三十貫文で買い戻したということはですね、日有上人の例の聞き書きの中にありますから。これはほかの房州家あたりの聞き書きでなくて、日有上人自身の聞き書きだ。それが聞き書きの上の巻の始めの方にのつている。


 【左京阿日教の事蹟】

 ○ それから、次は日鎮上人。日鎮上人のときなんかは相当、こう、諸堂を建立したり……、

【堀上人】 それはですな、この日有上人が相当下地を作つておかつしやつたから。そういうふうにですね、煩いのないようにしておかつしやつたのです。ですから七十年の例の争いの始末はですね、日有上人がつけて、そして大石寺が独立していけるようにしておかれたのです。ですから、鎮師が若いときに貫首になったのですけれども、鎮師の御意見番というようなものがあったですね。
 それは例の左京日教という人がですね。あの人が要法寺からきて、日有上人の門下になって、そしていろくな大石寺の内外の寺務にたずさわっていたらしいです。その人があとに残って鎮師を補佐してきたのです。ですから、鎮師のときは何の煩いもなくって、だんだんのびていく方ですからですから諸堂の建立もできた。

 ○ そのころは、まだ世の中は乱れている最中ですね。

【堀上人】 ええ、まだまだ。例の徳政の最中ですからね。

 ○ ははあ、

【堀上人】 徳政というやっがね、徳政にあずかる方は、いいけれどもね、徳政をかけられる方は災難でね、徳政のために財産を失う者が多かったのです。

 ○ 左京日教という人はですね――要法寺から大石寺にきた――相当に學問もあったんですか。

【堀上人】 いや、學問よりも経歴がいい。経歴の方がよい。雲州の牧(馬末)の安養寺にいたんですから。牧の安養寺というのはですね、要法寺が二つになってね、上行院、住本寺と二つになった。住本寺というのがですね。日尊の弟子の日大の寺です。その住本寺というのが上行院より大きいのです。
上行院は日印という人の寺です。関東方面には主に上行院の本寺があって、関西方面にはですね、住本寺の本寺が多い。どっちかというと、関東方面の本寺は数が少い。関西方面の山陰地方の本寺が多いです。それですから、牧の安養寺がですね、山陰道の一つの田舎本山で、そして、この、今全然こっちの本寺になっております會津の賓成寺はですね、あれは関東方面の本山であった。けれども、その統卒している寺院は、関西の住本寺系の半分もないのです。それからむしろ住本寺系が弘まって、上行院系がほとんど弘まらない。
 まあ、例の日辰がですね、両寺を合併して、例の天文法難以後、二つの寺を一つにした。一つにしたけれども、やつぱり内部は元の通りでね、上行院系と住本寺系とがやっぱり分離していたんですね。そして、この住本寺系の方が大きくつていたんですから、住本寺の貫首はですね、ほとんど例の、爾巻抄の百六箇抄、本因妙抄の相傅、それから御本尊もどうかすると免許で書いたんじやないですか。そういう特権をもっていたんですね。特権もつよりもですね、賓力を蓄えた。住本寺の本山もですね、本寺を統一してるところの牧の安養寺の貫首の左右するところになったのですから、牧の安養寺の貫首の御機嫌ではですね、要法寺そのものが立ち行かないような財政上の困難を来していたわけだ。ですから安養寺というのは、とても堂々たる本山であったのです。そこから出た人です。そこの貫首です。ですから、ただ左京日教が單獨で一人でこの、日有上人の弟子になったというわけじやないですね。背景があつたてす。
背景があって、左京日教と内々ですね、相通じているところの本寺の人が大分あったらしいです。

 ○ ちょうど、今、身延から孤立して大石寺に入ったようなものですね。

 【堀上人】 ええ、そうそう。その左京日教が日鎮上人の御意見番ですね。日有上人の晩年にですね、亡くなる四、五年前にですね、すつかり、お山にきて仕えていた。で法義のできる人ですから、まあ、日有上人が亡くなられても後は左京日教が日鎮上人に學問を仕込んだ。

 ○ 本佛論なども立てていた方ですね。

【堀上人】 そうです。それはですね、本佛論などもですね。雲州にいる時分からその気配があったのです。ですから要集の中に百五十箇條というのがあるでしよう。あれは、まだ要法寺時代の本ですから。ですから法義が充分じやない。充分でないですけれども、その中に芽生えております。

 ○ 日鎮上人の大石記について……

【堀上人】ああそれはですね。、鎮師の書いたものが要法寺に残っているという。

 ○ ああ、そうですか。

【堀上人】 ですが、それも要法寺にない。本山にはですね、それは残つてない。鎮師が寫したのが要法寺に残つて、要法寺日辰が又寫しておいた。それが今要法寺にある勘定ですけれども、それが果してあるかどうかわからない。御義口傅の中にも、要法寺にある御義口傅なら確かですからね。ですけれども、その要法寺の版の御義口伝というのが、どうも原本が怪しいんですよ。
今、わしの方にある御義口伝の上の巻というのと大分違うんです。ですから、その上の巻によって今の学会本の御書は作っておいた。ですからキズがないんです。
 要法寺版の普通の御義口伝はキズが多すぎる。キズが多すぎるから日宗新報で清水龍山に頼んで、そして御義口伝の訂正をしてもらった。それは、いくらかキズが少いですけれどもですね、清水という人は自分の頭でヤリクリする人ですからな、ちょいと怪しい。要法寺の、その元■四年の寫本というのが、とても立派です。四年の寫本が、大石寺にあって、上の巻があって、下の巻が要法寺にある。あるが、あそこの學頭がわしの懇意ですから、失くしたかもしれない。それの下の巻きがあるというとですね、御義口伝がもっとも訂正ができる。
 ○ このころは、大体、そういう教學の面は、もちろんでしようけれども、北山には、日淨とかいうょうな、日有上人の悪口なんかいったのがおりましたですね。おりましたけれども、やっぱり、大石寺には、兄さん格のような、兄貴格のような空気があったのでしょうか、その当時には。


【敬台院の事蹟】

【堀上人】 それはですな、勢力からいうとですね、幕府になって、そうですね、三代将軍……五代将軍あたりまでは、やはり、この、重須が一等有力だった。 

 ○ 五代というと、徳川の……

【堀上人】 ええ、徳川の……。そして、この、どっちかというとですね、敬台院の関係からですね、大石寺が少し頭をもち上げた。伽らんもですね。今の本堂が敬合院によってできたのですから。あの時分は、もうですね、普通の庶民で作る寺というのはとつても、金力もなしね、それから、この権力をもたないですから、いいものができなかった。始めて大石寺が、そういうものに結びついたのは敬台院のためです。

 ○ はあ。すると、あの方はどういう方だったんですか。

【堀上人】 敬台院は、要法寺にいわせるというとね、あの人の蜂須賀の先祖ですね。
蜂須賀小六とよくいいますね、あの人がですね、秀吉公との例の関係からね、幼年時代の関係から、とても有力であった。それがですね、蜂須賀公の伜の至鎮(よししげ)という人が徳島に知行を興えられて、そして逢庵(ほうあん)公も又生きていたんですから。正しく徳島の御大名として特待をうけていた。そのおつかさんの、至鎮公の奥さんですね、それが例の神君のね、家康公の養女として、その蜂須賀公に縁づいたのです。例のその、家康公の政略上としてね、あちこちの大名の娘を自分の娘にして、偉い大名に縁づかせた。
自分の味方を作るために。その一人ですから。それですから、逢庵公はいたけれどもね、逢庵公よりも、その方の幕府の関係の深いですね、幕府の御養女の奥様の方が勢カあったんです。逢庵公がいくらか要法寺との関係があった。それで、その、敬台院殴がその縁故で要法寺に多少の関係はあったらしいです。
 それはそれとして、今度は、なんですね大石寺と縁が深くなった。そして、この鳥越の池田侯の屋敷にですね、法詔寺というのができた。その鳥越の法詔寺がですね、今度は屋敷内におくというと、あんまり寺が粗末になるというので、その安房の徳島に知行がきまったから、この法詔寺が安房に移ったん、ですね。それが今の敬台寺のもとですけれども。昔の圖なんかみると、今のは十分の一もないですね。とってもデカイものをこしらえたらしいです。
その餘波としてですね、お山にやはり本堂が小さかったですから、今の大きな本堂ができたのですね。敬台院殿のすべての計いです。それですから、大石寺住職なるものが、今度はほかの諸本山と同じことにですね、獨禮席になった。普通の小大名は總禮席といって、ずっと並んだところに、その、将軍家が出てくるということになる。獨禮というと一人々々で、一對一で對遇ができた。大勢並んだところに上段に将軍家がきて、頭をこっちから下げるのでなくてですね、もう、将軍家一人、上人一人でもつ、その對遇ができることになった。それは、必ずしも寺が大きいというわけでない。特別の禮遇でもって、そうなった。その独礼席になったのが寛師の前の日宥上人時代ですからその邊からですね、大石寺が少し認められてきたですね。


 【封建時代の弾圧】

【堀上人】 それ以前の大石寺の布教なるものはとっても微弱だった。だから金澤なんて、始めから法難のし通しでしよう。金澤の信者は日精上人時代からですから。それで、みんな法難をうけちやった。

 ○ 認められなかった?

【堀上人】 認めない。というのは、幕府の方針としてですね、その大名の支配内に、その宗門の寺があれば布教ができた。ですから、その大名の支配内にですね、ある本山の末寺がないというと布教ができなかった。

 ○ 金澤は前田百萬石の殿様が彈壓したわけですか。         

【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ ひどいもんだなあ。

【堀上人】 尾張は尾張で弾圧した。尾張の方は百年ぐらいだつたが、金澤の方は明治まで三百年近く弾圧くった。弾圧のくい通し……。

 ○ 日精上人のころから、ずーツと續いたわけですか。

【堀上人】 ええ、ずーツと。

 ○ ははあ、大変なもんですね、ひどいですね……

【堀上人】 この常時は正しいことがいえなかったのです。自讃毀他というのが問題になっているから、どんなに良くても、自分の方を讃めて他を毀るということは騒ぎの元だというので、それを止めちやつた。法義の如何にかかわからず……。ただ穏やかにお互いに仲良く布教するなら、そりゃ随意だ。自分を正しくするために人をこき下すということは禁制だ。争いのもとだというそれが幕府の本心ですから布教はできないですから、ほどんどですね、幕府に入ってからの大石寺の布教に、法難の伴わないものはない。

 ○ 金澤の法難も宗学要集の中に入っておりますか。

【堀上人】 入っております。入ってますがですね、全部じゃない。要點をとってありますから。金澤の方はまだ材料が澤山ありますから。お話は違うけれども今度それ、学会の法難を宗学要宗に入れんけりやならんですがな。この本であまり澤山入れると具合悪いですから、そうだな、三十頁くらいにして編さんしてもらえないかね、この次入れますから。三十頁くらいできるでしよう。

 ○ かしこまりました。


 【大石寺と要法寺の関係】

 ○ それから、次は第十四世日主上人ですね、日主上人が、小金井の蓮行寺へ行かれたわけですね。

 【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ その跡へ要法寺から日昌上人がお出でになった。その頃のいきさつは……

【堀上人】 その、日主上人にっいてはですね、これも他團の悪口があるです。主師が何かその、酒とか女とかいう問題でもって失敗して、そして、小金井に行ったなんていうことをいうのです。それから、地方の村の人の伝説にもそれがある。そうですけれども、そういうことはないらしい。ないらしいけれどもですね、實生活の上から小金井の方がよかった。なぜ小金井がいいかというとですね、小金井は足利尊氏が知行をくれた。

 ○ ああ小金井に。

【堀上人】 ええ、日行上人が小金井蓮行寺を開いた。行師はやはり小金井地方の下野の方の出身で、それで、やはり、あの邊の地頭と縁故があったらしい。それでまあ、小さな寺(蓮行寺)をこしらえたのですね。
それが少々のびてきて、そしてこの蓮行寺の方が良くなった。それも一つはですね、日有上人が行つて、小金井を又良くした。ですから、主師時代はもう、その、小金井の方はだんだん良くなったのだ、あれで大石寺よりも生活が楽だったらしい。

 ○ ははあ。

【堀上人】 だから主師がですね、小金井に引込んだわけではない。そういうわけで、小金井の寺に用が多くて、大石寺の方は例のその七十年の係争のあと、有師がようやく、まあ、復興したというだけですね、いろいろの面でまだやりにくかったらしいですね。

 ○ ははあ。その後、要法寺からこられたということは、やはり……、

【堀上人】 要法寺からこられたもとはですね、やはり、この、日尊上人と日道上人との関係からもきているのですね。道師も尊師も奥州出身ですからな。今の登米郡内の人じやから。姓は尊節の姓と道師の姓と一つということはいえない。どつちも藤原かもしれんですけれどもね。藤原というからといって懇意なわけではない、藤原は多いですからね。ただ同郷の出身ということであるのですね。同郷の出身であるというけれどもですね。

 道師は宮城県で生れたんじやない。ここで(畑毛)今の雪山荘のところで生れたんですからね。尊師は、登米郡の例のあそこに観音があります。観音の横で生れられている。けれども、やっぱり同郷で、やはり日目上人やなんかに関係の深い人です。それで、同し目師の門下として、つきあいが親密であった。こんなわけで大石寺と要法寺との関係が何となく、そこで結ぼつていたですね。
 それでこの日有上人の晩年にもですね、三位阿闍梨という人が要法寺からきて、そしてこの、大石寺の所化たちの監督をしていたです。それは大石寺の記録にはないけれども、房州の記録にはあります。三位阿闍梨のことをいってあります。その、三位阿闍梨なんていう人が、土佐の大乗坊の住職にもなったことがあるのです。それが又お山から行って土佐の大乗坊の住職にもなったことがある。三位阿闍梨授興の御本尊が大阪にありましたがね、惜しい御本尊じやけれども蓮華寺の焼けるとき焼いちやつた。まあこんなわけで三位阿闍梨日猊という人がですね、要法寺からきて、日有上人の下に仕えて、今の左京阿阿闍梨日教なんかと一しよに仕えていたわけだ。そういう、この、日有上人の時代に要法寺との関係があった。
 そんな関係につづいてですね、この大石寺の日主上人と、むこうの要法寺の、当時の貫首との関係が結ばった。その関係を結んだ人はですね、粟田口の清という人が関係を結んだ。つまり粟田口の清という豪族が取りもってですね、要法寺から入ることになった。そこに大石寺はですね、例の有名な日性を入れるつもりだった。日性というと、日辰の門下の一等學者で、とても京都方面では幅がきく人で、そこら中の公卿から招待せられて講義に行く、又宮中からも呼ばれるというほどでね、學者で何でもできるんですから。ええ、もう、神道の講義でも何でもやるんですから……。佛教の講義ばかりじゃやないんですから、重要な人物だったんですね。そういう人を連れてきたら、大石寺が繁昌するじゃろうということをいっていましたけれども、むこうじゃ離さない、それはむこうで役に立ちますからね。

 ○ ■定とは別の人が来られたわけですね。

【堀上人】 ええ、日性は本地院日性というそれで、なんですね、日昌上人がこられたんです。この人も、ものができるんですよ

 ○ それから、つづいてしばらく要法寺の人が……。

【堀上人】 ええ、それから九代。九代ですけれども、それは始めのうちはね、要法寺で相当でき上つた人がきたです。後にはね精師以後はですな、精師そのものも、でき上ってきたんじゃないのです。若いとき、きたのです。そして大石寺にきて、江戸ヘ出て、そして、偉くなった。精師以前の人はですね、大石寺にきて大きくなるんでなくて、むこうから大きくなった成人した人がきたんです。精師以後の人は、みんな、大石寺にきて大きくなった。所化できたのが多いですね。ですから要法寺からきたといっても、ただその、身体をもらっただけです。

 ○ ははあ、実際には、かせがなかったわけですね。

【堀上人】 ええ。それですから、学問なんかでもですね。一々要法寺流をもってきたわけじやないですね。えゝでも、いくらか要法寺の弊害は残つたですね。それをすつかり改めたのが同じ要法寺出の日俊上人、あの人が要法寺から出ていながら要法寺の弊害をキレイに大石寺から洗つた人です。

 ○ この日俊上人が、そういう佛像なんかを壊された。

【堀上人】 ええ、佛像なんかをとっちやった。

 ○ それで、最後が日啓上人ですね。

【堀上人】 そうです。この日俊上人は手がうまいです。日啓上人はちよっと手が、まずいとはいえないけれども、字がわからないですね。とっても雑物です。俊師の手は大がいの人がよめる。手がうまくてあんまり乱暴に書いていないですから。

【堀上人に富士宗門史を聞く】2


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